自己思想ボヤき

ボヤきます

日常に潜む複雑系倫理問題について

 通常750円のラーメンが、ワンコインで食べれる日だったから家族連れや、近所のお年寄りが来ていた。しかしその店ってのも二郎系のインスパイア店(麺は太く硬め)であり、前者の客はまだしも、後者の方の客は食べずらそうであった。

 私が来る前から居たお婆さんは、必死に食らいついて居たようであったが、どうも麺がうまく噛み切れず、食べきれない様子であった。 婆さんは30分くらい奮闘したものの、結局はほとんど食べれなかったようで、ボソボソと麺が硬いと言って店を出ていった。

 しかしその丼を店員が見るなり、婆さんを睨んで、その瞳には軽蔑の意が含まれていたようにも感じた。呆れたような顔をして厨房に戻る店員。それを見て胸糞の悪さと、人間の不完全さを身に染みて感じた。

 この問題はどちらが悪かったのだろうか?ビラを巻いていた店側だったが、ラーメンの質や量に関しては何も記載されていない。一方の婆さん側もそれを認知していなかったようである。

 これに付く回答は約3通りに収束する。 ①ビラに記載しなかった店側 ②どちらも悪くない ③情報を知らなかった婆さん側 この中で一番悪い回答というのは、②である。 一見平和主義の回答に見えるが、答えを出そうとしていないのである。

 「これは解けない」と断言して、考えることを辞めている人間が出す答えであり、倫理観の発達が如何に進んでいないかを示すメルクマールでもある。 次に②だが、婆さんを批判した人間は、恐らく立場を忖度することが出来ない薄情者、もしくはデジタルデバイドなどの情報格差について疎い者の回答。

 では本当の回答というのは何であろうか。それを導くことが出来ない倫理観の無さ、無力さを嘆くべきなのである。もちろんこれを批判する私も明確な回答は出すことが出来ない。しかし考えることは出来る。このような複雑系の倫理問題については、我々の持つ倫理観では答えを導くことが出来ない。

 我々は常に思考するべきである。パスカルの言う「考える葦」でいなければならないのである。しかし民衆は思考することを辞め始めている。不屈の意志を築き、思索をせねば我々の倫理観は変化せず、いくら複雑な問題を平面上で考えても答えは出ないのである。

 自由に囚われているのは我々ではなく、我々の精神であり、本来の自由を見失い、檻であると認識し始めたのである。このままでは本当に幻想が産む檻に我々の精神は閉じ込められ、二度と新しいものにたどり着くことは不可能になる。資本主義と同じくして、根本を突き詰めてかんがえなければいけない。