自己思想ボヤき

ボヤきます

我々の存在への問いについて

 「人間はいつ滅んでも構わない」という言葉に対して我々は反論できない。この言葉に対し、自己の存在を肯定するために、勝手に人間が生み出した「論理」を武器に否定しようとするが、所詮屁理屈である。滑稽にもほどがある。

 今日に及ぶまで我々は環境を汚染し、生命の鼓動を止めてしまったりもした。そして今後しばらく、ひょっとしたら我々が滅ぶまで続くのかもしれない。

 我々は過去を学ぶ目的として、歴史というものを作り上げた。中には人類最大の汚点や、非常に心を痛めるものも多い。

 しかし本当にそれが本来の目的として使われているだろうか?ある教諭は試験範囲を教えることが仕事だと思い、学ぶべき本当の意味を欠いた授業する。覚えることが大切なのではない。そういう出来事が起こったという歴史書を自分の中に作り上げることでもない。我々が本来感じ取るべきは、直感で感じる生への憧れである。

 過去の学び方を我々は間違えている。学校で学ぶべき歴史というのは、その出来事から感じることができる、その時代の倫理観、社会思想、一般人の考え、などである。そして、それを生かし自分の倫理観というものを模索するべき時代が来たのである。

 我々は自由を与えられた。しかし余りにも広すぎる故、灯りが届かず、どこまで広がっているのか分からなくなり、挙句の果てには檻の中にいると思い込んでいる。そんな時代に終止符を打たねばならない。我々自身が灯りとなり、進まねばならないのである。

 我々は考える葦である。故に考えることは吝かではないのである。

 我々自身が己の存在を問う人間であってはならない。あるべくしてそこにある、そんな人間として世界全体の倫理観を発達させなければならないのである。軽々と他者を殺めたり、意味もなく動物を殺してはならない。銃や核兵器の存在も我々自身を脅かす存在であると認識がなっていない。我々の倫理観は数百年前のそれの根底となっていた「支配」から抜け出せないのである。

 我々は考える葦である。故に考えることは吝かではないのである。

 もちろん我々を取り巻く問題はこればかりではない。しかし、それの念頭に置いたとしても我々の倫理観は時代に見合っていない。「支配」が根底にある倫理観は捨てなければならない。我々の存在意義に対する疑問をなくすために。