自己思想ボヤき

ボヤきます

言語による思想への影響と本能がもたらす理想

 言語は我々の思想に影響し、今現在の社会思想の根底にも作用する。

歴史の中で変化した言語は、なんらかの特性を産み、我々の思想にまで影響を与える。

言語によって我々の思想はコントロールされているといっても過言ではない。

我々が意識しても気づかないような部分に作用し、なんらかの影響を与えるのである。

その証拠として、西洋思想、東洋思想といった地域での考え方、また例として、ある哲学書をドイツ語から日本語に翻訳する時、ドイツ語特有の解釈の仕方が日本語では上手く表現することができないといった言語間での齟齬が発生する。

 これはヴィトゲンシュタイン(前期)が唱えた「人間の言語は不完全があるがゆえに、高次元を我々の言語で表現することはできない。我々は沈黙しなければいけない」というのもではない。不完全なもの同士の齟齬は数学のマイナス符号同士が掛け算され、プラスになるようなものであり、沈黙すべきことではない。

 この齟齬というのは、言語による思想の限界があるというものである。我々は書物が違う言語に訳された時点で、その内容は訳された言語に上書きされたと認識すべきなのである。如何に元の言語を生かしながら翻訳しようが、言語に刻まれたミーム的な表現の模倣は不可能なのである。言語に関しての模倣品というものは、本物そのものである。

 しかし現時点で我々がすべき行動というのも顕著に存在するわけではない。現にグローバル化により我々の言語は収束しつつある。それも完全に上書きされた言語ではなく、自分たちが使っている言語に適応させながら我々の言語は進化している。

 言語の進化は促せるものではない。我々の本能が勝手に決め、自らの扱いやすいものへと変化させている。そして言語の流通により、我々の生み出した数多の言語は統合される。人類全体の思想統一なしに我々の真価は発揮されないからである。

 グローバル化による、文化の破壊が懸念されているが、それも細分化されて流通する文化組み込まれている。我々は破壊したものを利用し、元の形を失うことなく進化できる生物である。

 言語の収束、すなわち思想の収束は我々が目指すべきことなのである。