自己思想ボヤき

ボヤきます

人間の愛の可能性について

 愛とは、欠点を愛すべきことである。

自己の欠点、および相手のそれを受け入れることこそ愛の本質であり、相互依存への道しるべともなりうる。

 また、我々の愛は生物学上、あり得ない現象を引き起こす可能性がある。

生物とは本来、子孫繁栄のためにその身を捧げることがしばしばある。

 人間の場合、子どもを産み、育てることの繰り返しで繁栄してきた。

これが普遍的な生物の姿でもあり、これを愛の結晶と一般的には言う。

 しかし人間の愛という感情はこれを凌駕する可能性を秘めている。

「愛」には特異点が存在し、そこを越えてしまうと自分の子どもにすら嫉妬を抱くようになり、自分のパートナーに溺愛する。

DNAに刻まれた子孫繁栄の本能を超えるほどの大きな無意識となった「愛」は、何か他の存在があるものが自分のパートナーの興味を奪うことに、異常なまでの嫉妬を抱くようになる。

それゆえ子どもを作らない。

 ここでいう「愛」にたどり着くためには、欠点を愛し、すべてを認め、すべてを知ったうえで愛する覚悟が必要であり、それは並大抵の人間では成し遂げられない。

 好意の根源は未知なる部分への好奇心であり、それを欠いた上で一人の人間を愛さねばならない。

これは意識的になった場合、達成は不可能となる。

愛することに義務を感じてしまった場合、それは愛ではないからである。

 ではどうするか?

人間の「愛」とは愛しさと憎しみの両方を持つ。

要するにアンヴィバレンツである。

愛の崩壊とはこれのバランスが偏ってしまったりすることで起こる。

少し前の文章で好奇心の欠如した状態で愛することは不可能であると記述した。

しかしこれを言い換えれば、好奇心があれば愛することができるのである。

愛のバランスを意図的に崩壊させ、そこからの再構築をすることができるならば、自分の好奇心を欺き、「愛」の領域へ達することも可能であるのだ。